ネオ・クロストーク×映画専攻「物語から」当日の様子

ネオ・クロストーク
三宅隆太先生 


修了展3日目の2月11日、映画専攻の三宅隆太先生をお招きし、トークイベントは始まりました。
登壇している修了生・学生は丘山 絵毬(「おうさま・ひめ・ぶた・こじき」)、羅 絲佳(「私はモチーフ」)、劉 軼男(「家の前に大きな木がある」)、川上喜朗(「螢火の身ごもり」)。

トーク冒頭、三宅先生とアニメーション専攻との関わりについての自己紹介から始まりました。

三宅 すみません、最初にひとつだけ。実を言うと私は彼らの担当教員ではないんです。アニメーション専攻とは別に「物語理論」という脚本全般に関する講義を担当していまして。今ここにいる彼らは、そこに聴講しにきてくれた学生たちということですね。

司会 そうですね。三宅先生は映像研究科の映画専攻の授業をやっていて、私たちもその授業をとることができるんです。

三宅 そうなんです。なので皆さんがご覧になった彼らの修了制作は、あくまでもアニメ専攻の先生方と彼らが頑張って積み上げてきたもの、ということになります。にもかかわらず、なんで今日はご意見番みたいな顔して参加してるのかというと(笑)。私、本業は実写映画やTVドラマの監督をしたり、脚本を書いたりする仕事をしてるんですが、一方で〈スプリクトドクター〉という仕事もやってまして。これは〈脚本のお医者さん〉という、日本ではあまり知られてないですけど、簡単に言うと脚本づくりのサポートをする仕事です。そういう立ち位置なので、今日は〈物語という観点から〉彼らといっしょに色々お話しできればと思っています。

群集劇を短編で描くには

修了生の丘山 絵毬(「おうさま・ひめ・ぶた・こじき」)は、本作において「群像劇を作りたい」という思いから制作を始めたこと、そして短編アニメーションにおいて群像劇を扱うことの難しさを語りました。

丘山 私は群像劇を作りたいという思いがありまして、日本を舞台にいろんな人が出てくる物語です。もともとは学生寮が舞台のお話にしようと思っていて。自分が住んでいた芸大寮が舞台になっています。

司会 登場人物がすごい人数だよね。20人くらい?

丘山 そうですね。尺は6分なので群像にするには短いですね。
いろんな方から言われたのは、短編アニメで群像をやるのはなかなか見たことがないと。元々もっと長かったんですが、作画が増えすぎて終わらない危険があったので、短くきれいに、質の高いものを作ることにしました。
キャラクターは減ってないですが、登場機会は減ってますね。
当初やりたかったことは達成できてるとは思うんですが、どう形にするかは「これでよかったのかな…?」というのは残っています。もっとわかりやすく話をまとめたかったですね。1回見ただけではわからないですからね。

三宅 脚本という観点からいくと、実は不慣れな段階では〈群像劇〉に手を出すのは危険だからやめたほうがいい、という暗黙のルールがあるんです。何故なら難しいから。でも果敢にも手を出した(笑)。そこはチャレンジングで良いと思います。一方で群像劇をやろうとする時は、まず〈群像を使って何をやろうとしてるのか〉を考えるのが大切ですね。作り手として何か描きたいものがある。そのための選択肢として〈群像劇〉という判断なのか? あるいはテーマやメッセージはともかくとして〈手法としての群像劇〉をそもそもやりたいという想いがあるのか? 狙いがどちらなのかで仕上がりも違ってくると思います。
群像のいろんな視点で描くと扱っているトピックを多面的に描けるけど、そう簡単ではないし、単にいろんなひとが出てくるだけでは〈群像劇〉にはならないので、なかなか難しいところですね。
次は尺です。僕は普段アートではなく、エンターテインメントの仕事をしてるわけですけど、例えば上映時間が2時間の映画があるとします。2時間かけて描く物語は2時間になる理由があるし、なきゃいけないんですよね。30分で語れます、という物語を2時間かけて描く必要はないわけです。ただの水増しになっちゃうから。それでは良くない。当たり前ですけどね(笑)。
なんでこんな話をするかというと、アニメであれ実写であれ、あるいはアートであってもエンターテインメントであっても、映像作品というのは時間表現の芸術で、一定の時間、お客さんの人生を確実に拘束してしまうんですよね。絵画はじっと2時間かけて見つめるひともいれば、5秒でスッと見終えるひともいて、鑑賞者の側に選択肢がある。でも映像作品の場合、30分であれ、1時間半であれ、上映時間をすべて使って見終わらない限り、その作品を鑑賞したことにはならない。そう考えると映像は、物語と尺のカロリーがある程度一致してなければおかしいし、してなければならないともいえるわけです。
最初から6分のつもりで作って実際に6分に仕上がるものと、本当は15分を目指してたけど結果として6分になっちゃったものって、同じ6分の仕上がりでも実は似て非なるものなんですよね。6分の尺でやるには6分なりの物語カロリーがあるはずで、考えるべきはそこかなと思いますし、それができてないとわかりづらいものになってしまう。少なくとも観る側にとっては「伝わりづらい」と感じるものになってしまう。
一方で、アートなんだからそう簡単に分からなくてもいい、じっくり考えてもらえばいい、という考え方もあるかもしれないけれど、絵画や彫刻とちがって、映像作品はジッとしててはくれない。次から次へと新しい情報が画面に出てきてしまう。伝わらないまま次の情報が続くと、観ている側は過ぎ去ったイメージを記憶することができなくなるので、じっくりと考えることも感じることもできなくなる。ここが時間芸術たる映像作品の難しさだと思います。
でも今回のをきっかけにまた次を作っていけば良いわけで。ひとつずつ作って、つみ重ねていきながら、模索できるのがアートスクールの〈学びの良さ〉だと思いますけどね。エンタメの世界はハッキリと仕事なので、なかなかそうはいかないので、ある意味うらやましいところもあります(笑)。


映像を作る姿勢

トークでは丘山自身の作品作りのプロセスについてが話題に。物語を相手に見せる際の責任や姿勢についても話し合われました。

司会 何かテーマがあるというよりは「いろんな人が生きてるよね」ということがテーマなのかなと。

丘山 作品の作り方として、最初に作品の”枠”というのがあって「こういうカットが描きたい」という断片があって、それをつなげるという作業から入っていった感じですね。脚本の段階では付箋にめっちゃ書いたものをホワイトボードに張り出して時系列に並び替えて…という感じですね。そのボードのまま作っていったという。

司会 オムニバスに近い感じですね。小さな話を詰めていくような。

三宅 観る側に伝わるような物語を作りたいときは〈すべての物事は川の上流から下流に流れていく〉ということを意識すると良いと思います。つまり、太く大きなものから、細く小さなものへと流れるように考える。最初は個人の脳内にある〈混沌とした抽象的な概念〉だとしても、それを短く共有しながら進めていけば、最終的に個人的で抽象的な概念も他人と共有できるはずなんです。例えを変えるとしたら「木」ですね。まずは幹をしっくり作って、そこからだんだん枝をはやしていくように考える。そうじゃないと、そもそも〈その枝〉が〈その枝〉として存在する理由があるかどうかわからないうちに枝の細部を作りこむことになる。それだと観る側は〈どういう木なのか〉を理解できないまま枝ばかりを見ざるを得なくなるので、全体像が、つまり物語で言えば、何の話なのかが分からなくなる。特に僕が普段やっている〈仕事として作る映画やTVドラマ〉は他人様のお金で作るわけですから、ペイするためには観客からお金を取らないといけない、視聴率を取らなきゃいけない。ということは観る側のひとを楽しませないとといけないわけで、必然的に伝わらなければならない、ということになる。
始まりがあって終わりがあるのが物語です。ですから、まずはどこに向かう旅なのか。そして観ている人が物語の旅を終えたとき、どんな気持ちになってもらいたいのか。これを決めずに、いきなり個々のエピソード、つまり枝を作ろうとすることはないですね。少なくともエンタメの世界ではそうです。そういう考え方を持ってアプローチすれば、物語の作り方も語り口も身につきやすくなるので、アート作品にもシナリオ能力を活かしやすくなると思います。
とはいえ、ぶっちゃけたことを言えば、学生の作品は、なんでもありなんですよ(笑)。今回の作品は自分の修了制作なわけだし、仕事でスポンサーがいて作ってるわけじゃないですからね。ただ僕の専門は、自分の作品で他人様を儲けさせなきゃいけない、そういう仕事なんです。誤解しないで欲しいんですけど、押しつけられたことを嫌々やってるわけではないですよ?(笑) 実際、かなり自由度の高いオファーが来ることもあるにはあるんです。商品というよりも作品に近いものですね。そういう場合、思考プロセスは学生作品と近い流れを辿るんだと思います。ただその場合も、好き勝手やるという意味ではなくて、やっぱり「伝えるため」「楽しませるため」にはどうすべきかという考え方自体は同じです。時間表現の芸術である以上、情報の順番の出し方、積み重ね方は重要で、それが基本的に動画の物語作りのシンプルな考え方なのは確かです。ただそこに縛られないところが、学生作品の魅力でもあると思います。

アニメーション専攻における物語作りの姿勢も話題となる中で、三宅先生は動画の難しい点として、絵画やアートのように感性をすぐに形にできず、時間をかけて準備しなければいけない難しさを挙げています。

司会 アニメ専攻では企画の入りが人それぞれですね。絵から入る人、文章から入る人、音楽とかの違うところから入る人などが。作り方はみんなバラバラですね。
企画発表は修了展の2年前の年末には始まります。一人一人前にでて、プレゼン資料を用意して発表するんです。でも人それぞれで「どこからそれが発想されたのか!?」という不思議なものを話してたりとか。または企画がまとまってなくて、すごく抽象的な概念をぶつけてくる学生もいますね。作り方が独特ですね。

三宅 抽象概念もアートの種になると思うんだけど、思いついたときにすぐ指先からシュッと表現することができないのが動画の、とくにアニメのやっかいなところだと思うんです。何校もVコンを重ねたりしていくうちに、常識的な、バランスのとれた視点と行ったり来たりしながら進めざるを得なくなる。最初のパッションをどう維持していくか、この表現で大丈夫なんだろうか、そういう自分の中の批評眼とのぶつかり合いみたいなものがありますね。なにより時間がかかるでしょ? その辺が難しいところですよね。


音楽という”概念”そのものを描く

修了生の羅絲佳(「私はモチーフ」)は、単に音楽をビジュアル化した作品ではなく、音楽という概念そのものに意識を与えようとしたことを語っています。

三宅 とても心地よく見ることができました。でもこれはいささか皮肉なことでもあるんだけど、音楽の力がかなり作用しているなと。(音楽によって)見る側のリズムを作ることができちゃうし、作られてしまうとも言えるし。そういう意味では他の作品よりもつんのめらずにスムーズに見ることができたというのが初見の印象ですね。もちろん、そういう風に心地よく感じたのは僕の認知の問題なので、他の作品との優劣を言っているわけじゃないので誤解しないでくださいね。単に僕はそう感じた、ということです。あと、言葉が音になっている点も大きい。言葉の音色自体が作品の一つの心地よさになっていると思います。

 今まで抽象的なアニメーションを作っていたので、セリフ付きの作品を作るのは初めてでした。自分の作品がセリフなしで見られるのとセリフありで見られるのではどう違うのかはドキドキしていました。最初の企画は、音楽をビジュアル化するものでした。ただどうしてもアイキャンディ(視覚を甘やかすような表現)になってしまうのが嫌で、「語る」ことが必要に思ったので現在のものに変えました。”フーガ”という音楽の構造そのものを視覚化したいと思ったんです。音楽という概念そのものに、意識を与えて登場させることを目指しました。

“感覚”が一番好き

修了生の劉軼男(「家の前に大きな木がある」)は、自身が実際に体験した”夢”が本作の題材であることを明かしています。

 この作品のきっかけについて話そうと思います。実は私、毎日夢を見ます。毎日見る中で一つの夢から影響を受けて、この作品を作るようになりました。この作品の出来事の80%くらいは実際に夢の中で見ました。なので”夢”という実体験とどう距離を取れば良いのかを最初から悩んでいて、自分の昔の経験を巡って「もしかしたらこういうことがあるからこそ、こういう夢を見たんじゃないか」と探して、心にある気持ちに当てはめて作ってみました。作った結果、整理はできました。でもアニメーションを作るときに思ったのは、どうしても言葉のように伝わらない気がして。具体的に絵や動き、間を使って、感覚で観客に訴えるのは難しいと感じました。
今回は作品に対して”試し”ということで制作しました。
1年次制作「匂いがする」でも、匂いを視覚化することを目指しました。感覚が一番好きなんです。なので一瞬のそうした感覚に出会うとすっごく嬉しいんです。

三宅 面白いですね。見てて非常に納得したというか、観る側を説得しようとしてないところが良かったのかもしれない。夢特有のニュアンスというのは意識していると思いつかないし、感じられないものですもんね。だからこそ腑に落ちる。さっき展示スペースの方にある劉さんの作品も見たんだけど、原画のキャラクターの顔の前にトレーシングペーパーが重なってて。見てたらついめくりたくなっちゃうんだけど、あなたとしてはむしろ紙を押して、うすぼんやりと見えている像を見てほしいんでしょ? その手触りを見てほしいんだよね。それはこの映像作品の”夢”の話とも通じるよね。だからなのかな? 冒頭が窓から入るのは。 窓で枠組みを一つ作りたかったんだね。お話のフレームとして。なるほどなるほど……。あと、唐突に首がぼろっと落ちる瞬間はギョっとするよね(笑)。あれも夢の、特に悪夢的な違和感が面白かった。


直感を形にする難しさ

「疑問を保ちつつ作品づくりをする」ことを大切にしている劉。話題はそこから、映像制作における”直感を形にする難しさ”について語られていきました。

 物語の中で、文化大革命のような出来事が描かれています。実際に見たような夢を見たんです。私は体験できないことを夢の中で体験したんです。作品を通じて、それも含めて何かを感じてもらえるかなと、そのきっかけとして描きました。でも政治的なことは作品の中でぼやけていて、私ははっきり意見を言ってるわけではなくてただ感覚的に捉えてることを表現してるだけなんです。

三宅 面白いと思ったのは、不安のような気配がずっと漂っている感じがあること。恐怖まではいかない、漠然とした不安。恐怖に及んでないのは、恐らくアニメ制作のプロセスを辿る工程で思考が現実的なバランスのとれたものになっていって、当時の恐怖感覚を乗り越えてしまってるからだと思うんだけど。政治的なテーマを前面に出すことが狙いではなかったと思うし、だからこそ魅力的なんだけど、でも一方であなたの心の中でのざわざわした感じがそのシークエンスでも残っている。手触りが。それは言われて納得する程度には初見で伝わりましたよ。
混沌の作品だけど、ただ抽象的なのではなく、きちんと不安の感情が残ってるのが良かったと思う。あとモノクロだからというのもあるけど、非常に奇妙な味わいがあると思います。ノスタルジーではなくて、どこか不穏な感じというか。
物語的には、あまりきれいな起承転結を結ぶ必要はないんじゃないですかね。だって”夢”の作品だから(笑)。この長さと語り口で、ラストに無理矢理解決して不安もなくなっていたら「この話はなんだったんだ?」となってしまうしね。

 作品を作るときも、何かの疑問を保ちつつ作品づくりをする習慣があります。確かにこれで解決してしまっていたら、つまらないものになってしまうと思います。

三宅 そう思います。だけどその大切な感情を維持するのが難しいんだよね。しつこいようだけど(笑)、アニメ制作は時間かかるから。初めの直感を制作工程の最後まで維持するのは本当に難しいと思う。だからこそ不安をどう表現するかは重要だよね。
ただし、今よりも表現に正確さを求めるとしたら、やはりシナリオの強度が必要になってくると思います。時間芸術として物語る。そのことで観る側の感情を導く。それは”混沌とした良さ”とは、もちろん別の話としてね。

映像作品には”規定された物語”がある

修了生の川上喜朗(「螢火の身ごもり」)は、絵にキャラクターを描くことへの自身のこだわりを語っています。しかし絵と違い、映像には”規定された物語”があることを三宅先生は指摘しています。

川上 元々学部が絵画専攻で油絵を描いてました。その中で男の子のような女の子のような中性的な顔立ちの人物を描いておりました。何で描いてたかっていうと、こういった大きな瞳でデフォルメされたような表情の人物がただ絵の中に存在してくれている、それだけで僕自身の気持ちが満たされていく感じになるんです。
例えばハローキティって、どうしてみなさん人形を大好きなんだろうって思うんです。それはおそらく、自分の感情を無意識を投影しているからじゃないかと思うんです。キティって、口がないじゃないですか?目だけしか描かれていないので、笑っているようにも泣いてるようにも見えることがあって。それは多分、見てる人の感情が無意識が投影されてるからだと思うんです。なのでキティのような、表情が曖昧だけど瞳がはっきり描かれているものに、自分の気持ちを投影しているから好きなんだろうし、僕自身もそれが好きで、こういったキャラクターの絵を描いてるんだと思います。

三宅 キティちゃんの名前が出てましたけど、僕はシルバニアファミリーの仕事をやってるんです。そのアニメの脚本を僕が描いてるんだけど。難しい問題で。確かにキティちゃんは口もないし表情もない。だから愛されてると思う。けど、キティちゃんがムービーになってる作品っていっぱいあって、シルバニアもやってて思うのは、まず間違いなく(視聴者は)「私の知ってるキティちゃんじゃない!」ってなるんですよ。特に自宅に人形がある人にとっては「うちのキティの方が絶対にかわいい!」ってなる。ここが”彼がそこにいるだけで”っていうことの重要なキーポイントで、大昔の木彫りの人形からずっと繰り返されてることだと思います。人の気持ちを投影できるゆとりというのは、対象の存在自体に「規定された物語」がないことが前提になるんですよね。仮に背景となる人物設定があったとしても、いざお人形を抱っこして寝たら、夢の中でその子と人形がいっしょに冒険できるような。あるいは親戚の子にあげたとしたら、その親戚の子にとっては違う関係性をスタートさせることができるとか。そういう〈のりしろ〉のようなものが必要になる。固定化された物語とセットになると、途端にその〈のりしろ〉は消える。その代わり物語とセットでキャラクターを思い出したり、発展的に夢想したりといった遊びは可能になる。(映像には)そこにましてや、声優、アングル、切り方、ライティング等々が入っていく中で、どうしても、のちに出会うであろう観る側の、ではなく、まずは提供する側の個の眼差しが入ってくる。これはしょうがないことです。そのうえで、実際に観る人が作品から受け取る感情はひとりひとり違うし、コントロールもできない、ということは理解しておかないといけない。価値観というのはそういうものだから、あなたが作中の人物たちと過ごした時間があったとしても、動画に仕上げた時点で、上映が始まったら主人公は物語の影響を背負わなきゃいけないし、背負った状態でしか観客は認知できないんですよね。その点は絵画とはかなり違うし、イコールにはならないと思います。

世界はめんどくさいから面白い

話の中で三宅先生は、他者と気持ちを共有することの難しさ、そして素晴らしさについても語りかけました。

三宅 人って違うんですよね。当たり前ですけど、みんなひとりひとり全然違う。生きてきた中で見てきたもの、感じてきたこと、その経験の中でいろんなことを選択し、行動して「今のその人」になってる。そういう、自分とは全然違う存在である「他人」と、何か1箇所でも1秒でも共有できることがあったら、僕たちはそれだけで絶対幸福なわけです。そのうえで、もしその1秒が10分になったり1時間に増えていったとしたら、それはもう、こんなに幸運なことはないわけですよ。ところが、いざ共有する時間が1年とか10年になってくると、本来はたった1秒共有できただけでも素晴らしかったということを忘れてしまう。だんだん相手に対して、自分と同じ〈物の感じ方〉を求めるようになっていって、「私とあなたはここが違う」「何で私の気持ちがわからないんだ」「こういうところがあなたのダメなところなんだ」みたいに相手をジャッジしたり、評価したりして、自分の価値観に合わせた選択や行動を求めるようになる。それって「相手のこと」を「そのひとらしさから変えようとする行為」で、実はとても傲慢なんだけど、でもそういうことになっていきがちなんですよね。戦争と夫婦喧嘩は、発生する規模も理由も違うけど本質的には同じプロセスを辿っていると思います。
たしかに「他人に想いを伝える」「他人の気持ちを感じとる」「他人と共有する」というのは、とてもしんどいし、難しい。でも、だからこそ楽しく、素晴らしいことだと思うんです。他人と関わると悔しい思いもいっぱいするし。いい歳こいたこんなオッサンでも「何でわかってくれないのかな」って不満を抱くこと、未だに散々ありますよ(笑)。でも、わからせようとか、気づかせようとかじゃないと思う。まず相手の気持ちを感じとる。そういう考え方と眼差しが新しい出会いを生むし、その出会いをさらに豊かなものへと発展させると思うんです。いずれにしても、世界はめんどくさいから面白いし、他人は違う存在だから楽しいしめんどくさいし、だからこそ人と関わることは素晴らしいし最高という。つまり人間最高!ということです(笑)。

トーク後の質疑応答では、学生達の作品ごとの制作時間が話題に。
いずれの学生も「時間が足りなかった」と答える中で、三宅先生は制作の意識を変えることで、時間のかけ方がもっと有意義なものに変わっていくのではないかと問いかけました。

三宅 どういう風に思考してるのかな?というのはどの作品も気になりました。最初に直感があって、その面白さに乗って技術の作業に入っているのか、それともやりたいことが薄ぼんやりしたまま、それを眼差しの角度を変えずに擦っている時間が長いのか。1個のものに対してどう向き合ってるのかな、というのは気になりましたね。アニメ映像は直感的にすぐに作れないからこそなんだけど。もし手を動かしてノートの端から書いたとしても、コンテを順に考えていく流れ自体が多分擦っている時のスムーズさではなくなるじゃないですか。どうしたって。
何を言いたいかっていうと、直感的なものを活かすために、物語やシナリオの技術を理屈ではなく附に落とすってことができると、みんなむしろ作業ペースも上がるんじゃないかなって思ったんですよね。シナリオ力を身につけた方が、試行錯誤やトライアンドエラーが可能になるし、選択肢も増えるんじゃないかなって。物語的に「考える」という思考を持たずに、抽象的に「思い悩む」やり方だと、いつの間にか作業時間がなくなって「わぁ、もうこれでいくしかない!」ってなっちゃうんじゃないか。せっかくの閃きに繋がる擦りが足りないまま、技術的な作業を進めてるんだとしたら勿体ないし悔しいよね。
あと、身もフタもないことを言うと、僕は全体的に、むしろお話がもっとなくてもいいんじゃない?て思った。企画自体が「物語ること、お話を伝えること」に通じたテーマ性を持ってるのであれば、そもそももっと明確な物語になってるはずだし、そうじゃないんだとすれば、物語いるか? て思うんだよね。エンタメとして上手くなりたいんだったらまた話が別だけど、アートなうえに学生作品なんだから、もっと直感的で自由で良いんじゃないかと思ったんですよね。どのみち学生作品は制作期間が1年と決まってて、かかる手間は一緒なんだから、ひとりひとり自分に合った、良い進め方が見つかると良いよね。

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学生ごとで制作姿勢や物語に対する認識も異なる中、短編アニメーションにはどのような物語のあり方がありえるのか、じっくり考察できる時間となりました。その中で三宅先生は「世界はめんどくさいから面白い」「人間最高!」と、物語の大きな可能性をまっすぐに前向きに学生に投げかけてくれました。
学生それぞれの返答は、修了後も続いていきます。



(編集・川上)