ネオ・クロストーク×メディア映像専攻 「フレームから」当日の様子

ネオ・クロストーク
畠山直哉先生 






修了展2日目の2月10日、メディア映像専攻の畠山直哉先生をお招きし、トークイベントは始まりました。
登壇している修了生・学生は丘山 絵毬(「おうさま・ひめ・ぶた・こじき」)、羅 絲佳(「私はモチーフ」)、劉 軼男(「家の前に大きな木がある」)、黒澤 幸代(「光の表象」)。


畠山 写真家として活動して35年になるんですけども、3年前にメディア映像に呼ばれまして。自分の仕事の撮影と発表を続けながら、中華街校舎でメディア映像の学生と時間を過ごしています。


この日は「フレームから」というタイトルで、写真家として活躍している畠山先生の視点から、写真とアニメーションとのフレームの捉え方の違いを巡って議論が展開していきました。
トーク冒頭に上映作品の感想を求められた際、畠山先生はアニメーションという表現媒体を「危険なメディウム」と形容し、写真との違いについて言及しました。


畠山 その人の世界観が丸ごと出てしまう、かなり危険なメディウムであると思いました。ごまかしが効かないというか、素の人間がそのまま画面からわかる。他の分野のように物体に代弁してもらったりとか、美術館の空間を利用して代弁してもらうとか、そうしたことがやりづらい。世界観がまざまざと露出してしまう、ドキドキするものを感じました。


写真における「フレーム」


「フレーム」というテーマを巡っては、写真とアニメーションでは「フレーム」の解釈がそもそも異なっており、写真における「フレーム」とは”枠(わく)”のことであり、考え方や捉え方を規制する仕組みであるという意見が挙がりました。

畠山 写真でいうフレームとは、まさに”枠(わく)”です。どの枠でどう切り取るかというのは写真家の腕の見せ所です。しかし映画やアニメーションの場合は、(アニメーションとは)命を与えるという意味ですよね?止まっている映像を動かすということですから、動かすためには一枚の絵じゃなくて複数枚の絵が必要になってきますよね。その時にアニメーションの人たちはフレームにナンバーをふります。1,2.3.4.5…というように。ずっと連続がありますよね。前のフレームと次のフレームにどう変化を与えるか、というのがアニメーションの仕事でしょう。でも写真家にとってフレームとは、どちらかというと、連続的な時間を区切ることなんです。区切ったままそれを見せると、情報的には不安定で不確かになる。でも同時に、そこに何かを読んでもらう余地が生じます。そこが動画と違うと思います。
(中略)
フレームは、僕らの考え方や物の見方を規制してくる仕組みとも言えますね。フレームっていうのは、僕たちがものを見たり頭の中で考える時に、カメラのファインダーのような形で、頭に嵌まっている何かだと思うんですよ。

丘山 認知のバイアスということですかね?

畠山 そう!それも含まれる。

一方で畠山教授は「フレーム」の外に何があるのかを、写真家としての視点から学生に問いかけます。

畠山 人は写真を見るときは常に、フレームの外側を想像しながら見てるはずなんです。見えないところを。それこそが、フレームが与えてくる何かだと思います。
フレームの外にあることは、人にとっては、取りあえずは意識もされない、どうでも良いことですよね?例えばフレームの外にあるものってなんだと思います?

 ”制作者自体”ですか?

畠山 その通りですね。あなたがいつどこで生まれてどういう人生を送っているかといったような、あなた自身が持ってる物語もそうですね。それはフレームの中には基本的には入ってこない、外にあるものなんです。大変な思いをして撮影したとか、飛行機から落ちそうになりながら撮影したこととか、基本的にはどうでも良いことなんです。だけど人はそれを無意識に想像してしまう。写真にとってのフレームとはそういうものなんです。限界であると同時に、でも利用できる何か。



本とアニメーションの類似点

トークは”本”についての議論に。写真を本でどのように意識して構成しているのかが話題になった際、畠山先生は修了生の村田香織(「わたしたちの家」)の作品について言及し、彼女のアニメーション作品には”本”的な要素が現れていることを指摘しました。

畠山 ”本”のことなんですけど、修了生の村田香織さんはスクリーンで発表なさっていて、展示会場では絵本的なものも見せてますよね?
本というのはページをめくることによる時間の出現というのがあるんですね。一つのイメージが消えて、もう一つのイメージが現れる。

 まさにモンタージュですね。

畠山 そうですね。止まってるものに命を与える。つまりアニマですね。動きを与えることがアニメーションですもんね。そういう意味では、本とアニメーションには共通点がある気がします。

村田 私はもともと本を読むのが好きで、写真も好きでよく観るのですが、自分は絵を動かすというか、とても古典的なところからアニメーションを作っているという感じがあります。アニメーションは時間と空間、動きの問題がありますが、自分はもっと原始的な、絵を動かすことによって時間を作るような感じがあり、今回の作品では本をめくって出現する時間を表現するような展開を意識して作品をつくりました。

アニメーションは時間の流れがあらかじめ規定されているのに対し、本は読む人の時間の流れで進むもの。両方とも時間の流れがありつつ、その流れ方には違いがあることを修了生の劉は指摘します。

 本は時間を自分でコントロールできるものだと思います。上映会ではスクリーン前に「見て!」と座らせて、スクリーンの流れでしか時間は流れないですけど。本や映像など、媒体によって時間の捉え方は違うと思います。


実体験を扱うことのリスク


イベント後半からは、作家が作中で自身の実体験を扱うことについてが話題になりました。
畠山先生は自身の教授としての経験からも、実体験を作中で扱うことの危険性を指摘しています。その上で、自分の作ってきたものに距離を置いて眺めることの重要性を投げかけました。

 学生作品は実体験をモチーフにして、自分を表に出しすぎてしまう傾向があると思います。私自身も作品との距離感で悩んでいます。しかし実体験をもとにしないと、自分が思ってることを作らないと嘘っぽくなってしまうと思うんです。その距離感が難しく感じるんです。

畠山 それはある程度しょうがないですよ。だってあなた方は生きてる時間が少ないんだから。よく言われることですが、若いお笑い芸人のネタには中高生の頃のネタが多いですよね。ライトノベルの若い書き手も、高校生二人が揃って旅に出るとか、そんなストーリーが多いですよね。そういった類型化はしょうがないと思うんです。
だけどそこだけに自分の真実を置き過ぎてしまうのはちょっと問題だと思います。あなたの作中で文化大革命の場面を少し再現してたでしょ?あのシーンはグッときました。あなたの外側の出来事をはっきりと扱っていたから。一人の個人のフレームっていうものには限界があるんですよ。僕にもあります。
若いうちは自分の記憶を頼りに何かを表現するときに、自分の幼少時代が現れるのは自然なことだと思います。僕はあまり気にしていません。だけど40-50歳になって幼少期をやるとしたら、そこに時間を経たことによる想いみたいなものが加わっていかないと、ただの繰り返しになってしまうでしょうね。
漫画とかもそうかもしれないですが、自分をテーマにすると似てきちゃうことがあるんですね。特徴が出しにくい。自分の幼少期や学校がテーマの物なんかは、日本の場合はほぼそっくりになってしまって、アートというよりは文化人類学的に読まれてしまったりする。僕はこういうことはあまり得じゃないなと思うんです。自分の考えてること、作ったものを少し距離をおいて眺めるのが大事です。






最新技術を扱うことの危うさ


作品の制作方法に関する議論では、インターネット等の最新技術による新しい表現の可能性が話題になる一方で、畠山先生はその危険性について言及しました。

 私の作中に出てくる山の場面はGoogle Earthの機能を使っています。従来とは違う扱いで地球を観察することができ、地球の中の気に入る山を集めて作中で使用しています。インターネット世代なので、世界を見る感覚が昔と違うのではないかと思います。地球をどんな角度でも見れるし、こういった感覚で作品を作れるのは自分たちの強さではないかと思いました。

畠山 そこには反論があります。確かにあなた方の世代でしか、いまの時代でしか体験できないような、技術的に面白いものが現れてきてますよね。でも問題は、それを使える人の数が数億人いるってことなんです。もちろんあなたほどの気持ちで作品をアーティスティックにまとめるセンスはないかもしれないよ?でも潜在的には、同じことができる人は数億人いる。2010年くらいから、Google Earth的なものの性能が急激に上がったときに「もう海外旅行に行く必要がなくなったね」って意見をよく聞いたんです。あなたの意見はそれに近い。確かに、例えば去年12月に僕が言ったフランスの小さな街の病院の前の通りとかを、きのう東京でストリートビューで確認できるわけです。これは確かに、驚くべきことが起きているのだけれど、それを行うことができるのは僕だけではない。だからそれを作品に取り入れるときにも「私だからこれができる」と主張するのは無理だと思いますよ。他の何億人も私と同じことができるのだ、と思いながら作らないと、現代的じゃなくなっちゃいますよ。
作家として生きてくなら、いまのところ、戦いながら一番のものを作らないといけない。例えばどっか別の場所で似たものを見て、この作品を見たとする。すると「前に別の人が同じことやってたよ」って世間は言うんですよ。「私は自分が見つけて面白くてやってるだけで、他に同じような作家がいるとは知りませんでした」と言っても、世間は聞いてくれないんですよね。「だって2ヶ月前に同じようなもの見てるんだもん」と言われちゃうわけです。そういう大変なことがあるわけです。

 もし、ある画廊で先生に似た作品を見た人が「これは畠山さんの作品と似てるじゃないか」と言われたら、その作家の作品は無価値になるということですか?

畠山 残念ですけど、いまのところ世間はそういう風に考えています。
むかし僕の作品をネットから拾って自分の作品に利用した人がドイツでいたんです。ギャラリーを通じて注意したらすぐ引っ込めましたけど。アートの世界はアイデアが重視される世界なので、一人が何かやると他の人は似たようなことがやりづらくなってしまうことがあります。
技術というのは一人だけ使ってたらダメなんです。できるだけ多くの人が使わないと技術って成立しないんです。世界中の何億人が使うから、技術として成立しているわけです。ところがアートは近代ここ200年くらい、オリジナリティ、独創性みたいなものが重視されてきた世界ですから、そりが合わないんですよ。このそりの合わなさを理解しながら作品を作らないと、面白いものはできないでしょうね。


”やばい”というのは楽しいこと


イベント後の質疑応答では、写真や映像が断片的に消費されている現状に対する危機感が話題に。インターネットに情報が溢れている中で、アニメーションを作る学生たちはどのような意識を持つべきかが問われました。

質問者 (アニメーションを鑑賞する際に)上映会では1本のものをずっと見せつけられる環境にありますが、パソコンではランダムアクセスができる場合は見たいとこだけみれる。本に付箋をつけるようにして見れる。映像も見方によって、上映会とは違う、本のような見方ができるのかなと思いました。

 これは必ずしも作り手の意図ではないかもしれないので微妙なところではありますが、私は偶然性を大事にする人なのでそうした見方で別の可能性が生まれるんじゃないかと勝手に想像してます。しかし時間芸術と呼ばれるアニメーションの場合は、作家さんが込めた時間や間を楽しんでいただきたいものではあるんですね。

話の中で、畠山先生はトークイベント前日に学生側から上映作品のURL一覧が送られてきたことについて言及。その上で、ディスプレイ上では映像作品がスキップで省略されて鑑賞されてしまう問題を指摘し、そんな環境で作品を発表しなければいけない現状の厳しさを問いかけました。

畠山 僕は主催者から各学生作品のURL一覧をダーっともらって、ゲンナリしちゃったわけ。今日ここに来て椅子に座って作品をしっかり見るつもりだったから。もし僕が自宅のパソコンで見てたとしたら、悪いけど、どんどんスキップしながら見てたと思うんだよね。
そういう鑑賞方法でも平気、といった作品だけがYouTubeに残っていくとしたら、これはたいへんな世界だと感じますね。

 とても厳しい世界だと思います。

畠山 はい。一握りのアニメーション作家以外のものは、ザッピングやスキップで、ちょっとでも興味をもたれないとすぐに通過されてしまう。そんな厳しい世界に自分の作品を発表しにいくというのは、ひょっとしたら僕はよくないことだと思うの。
僕は今日ここに座って作品を見るのが楽しみだったわけです。パソコン画面ではなくここで座ってみることで、作品を細かく見られる。自分の世界観と合わない作品であっても、じっと見てると「この人の世界観にも、自分が考えていきたいことが眠っているのかもしれない」という気になっていくんですよね。でもそういったことがネットの画面では不可能になっちゃいます。だからみんなハリウッド的なすごく刺激的な、やたら忙しくてきれいなだけのものに行っちゃうじゃないですか?僕はそれを危惧してます。そして「そんな世界にいることが私は嬉しい」と思う人々がマジョリティになっていく世界がすぐそこにきてますからね。本を読まない、長いお話に関心がない人たちがマジョリティになる時代がすぐそこに。そんな中で僕らのように、メディアがどうのとか言語がどうのとか歴史がどうのと言ってるのは、かなりやばい状況なわけです。

学生達へ現状への危機感を訴えつつ、畠山先生はそこからの可能性を投げかけます。

畠山 でも悪いけど学生たちに言っときます。やばいというのは楽しいということです。考えようによってはね。

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1時間の予定だったトークイベントは、白熱の末に20分延長する盛り上がりを見せました。
今年度の新たな試みとして始まった他専攻とのクロストーク。アニメーションを捉え直そうとする中で、現代におけるアニメーションの存在意義を改めて見つめ直す時間となったのではないでしょうか。
情報過多の現代、作品鑑賞のあり方が大きく変わる現状においてアニメーションはどうあるべきか、学生達の新たな試みがここから始まります。


(編集・川上)