ネオ・クロストーク×アニメーション専攻「サウンドから」当日の様子

ネオ・クロストーク
高山博先生 




修了展3日目の2月11日、アニメーション専攻にサウンド講師としてお越しいただいている高山博先生をお招きし、トークイベントは始まりました。

登壇している修了生・学生は丘山 絵毬(「おうさま・ひめ・ぶた・こじき」)、羅 絲佳(「私はモチーフ」)、劉 軼男(「家の前に大きな木がある」)、川上喜朗(「螢火の身ごもり」)。


作家性が担保されるように作っている


高山先生はアニメーション専攻において、サウンド・音楽演出・音演出・ワークショップなどの指導面でお世話になっておりました。
冒頭ではアニメーション専攻の作品と一般的な商業アニメとの違いについてが話題に。

高山 一番大きな違いは、基本的に一人で制作するということですね。
「なつぞら(2018年前期に放送されたNHK「連続テレビ小説」のテレビドラマ)」では商業アニメーションのスタジオが出てきますが、テレビや映画でやっているいわゆる”アニメ”は、スタジオがあって、分業があって、原画、動く絵にする人、仕上げる人、いろんな人がたくさんいて、それぞれ分担して一つの作品を作っています。
しかし藝大アニメーション専攻ではそれを基本的に全部一人で作っている。なぜ一人で作っているかというと、作品として、作家性が担保されるように作っているから。そのため、責任も全部自分になります。だから作業にものすごく時間がかかる。アニメーションは1秒で最大24枚だけれども、前景と背景も描くとその倍に。ものすごい枚数を描いています。またはストップモーションアニメーションなら、物を置いて、少しずつ動かしながら撮影し、1秒間に24枚分を撮影し並べて映像にするという…。「こんなに描いたのにまだ20秒しかない」とかね(笑)。
日々そんなことをずっと繰り返して、修了課程では2年間で2本の作品を作るということになっているわけです。 





アニメーション専攻と音楽環境創造科とのやりとり


藝大アニメーション専攻では、学生によっては作中の音楽・音響を音楽環境創造科(※北千住校舎で2002年に設立された学科。古典的なクラシックだけでなく、メディア、身体表現など、音楽に関する幅広いことを扱っている。以下「音環」)の学生に依頼しています。

高山 音楽のミキシングなどはどうしても専門性が高いので、藝大の場合は音環の学生に依頼しています。
1つの作品につき2人の学生がついて、一人は音楽の作曲、もう一人はサウンドデザイン・SE・動作などの音のバランスをとったり。2人の学生がアニメーション専攻の1作品を担当して、(アニメーション専攻の学生と)共同制作で作っていきます。最初はお見合いのような感じでね。

司会 最初はアニメーション専攻・音環の学生がプレゼンをしますよね。アニメーション専攻は「こんな企画があります」、音環は「こんな音楽を作っています」とプレゼンし、相性の良い人たちを先生方でも決めて会わせてくださるという。あれ、本当にお見合いですよね(笑)

高山 プレゼンの前には私とも相談したりもするんですよね。その段階では企画がはっきり決まってないので「なんとなくやりたい」みたいのがあってね。「あれかな?これかな?」みたいなね

司会 音楽の方から提案していただきたいと思うこともあったり…。

高山 アニメーション専攻の学生側から明確な意思を持って「これが欲しい!」ということもあれば、「一緒に考えてほしい」ということもありますよね。話していく中で学生のイメージが固まっていく感じですね。


1人7キャストによるおしゃべり


修了生の丘山絵毬(「おうさま・ひめ・ぶた・こじき」)は作中に大勢の人物達が登場する群集劇が展開します。トークではキャスト探しの苦労を明かしました。

丘山 声は役者さんにお願いして、子役とお姉さんは役者さんにお願いして、残りは芸大の構内の学生出会ったり、サウンド講師の岸野先生にもお願いしました。何と1人7キャスト…。
壮年以上の男性キャラクターは全員同じ人が喋っています。

司会 え!?てことは総理もお父さんも同じ方ですか。

丘山 そうです。あとは若めの男性は学生が喋っています。セリフのないキャラもいて、全てではないです。歌い手は芸大の声楽科のOBです。

高山 一人何役なのは何か意図があるの?単純にたくさんキャスティングができなかったということもあるだろうけど。

丘山 同じ方に演じていただくのは、例えばお姫様と赤スカートの女性、女の子は同じ声なんですけど、”姫はどのキャラクターにあたるか”ということを考えたときに赤スカートの女性がお姫様だと思っていたので、姫と同じ声にするという意図はありました。

高山 やっぱりそうなんだ。”おうさま・ひめ・ぶた・こじき”の4人に登場人物たちが集約されていくような。

丘山 この人が王様、この人は姫、というのはお話の中で立場が入れ替わったりということはあるので王様だったことがこじきになることもあるし、豚だった人が王様になることもある。そういうことが現実でも起こり得るんじゃないか、ということを思ったんです。

高山 そういったことを考えて音の設計も考えるわけだね。

話は音作りの話題から、作品のテーマにまで及びました。

高山 この作品は”色即是空”というか、「世の中は空なり」「すべて水に流す」てことと、テーマ的な関係はあったの?

丘山 そうですね。”般若心経”の最後の句には彼岸のイメージがありまして、流れていく、”諸行無常”のイメージですね。…言葉でまとめきれませんが。

高山 本当はもっと長くかかりそうな話なんですね。人物背景とか全部説明しようとすると。
そうした、本当はもっと奥まで続いている物語の一部分を私たちは見ているんだという感じがしました。意味だけを追おうとするとしんどいかもしれませんが。ストーリーがどうなってるか、何が起きてるのかは難しいかもしれないけれど、編集がうまくいってるなって感心しました。カットカットでうまく繋いでいて、映像とカットの時間の快感で見ていくことができるという。 
特にアクションつなぎ、連鎖するようなつなぎがたくさんありますね。悪い総理大臣の発射ボタンの箱のシーンが次でも箱でつながっていたりとか。ピアノからピアノでつながっていたりとか。
ピアノのシーンは、つなぎつつも余韻を壊すように激しくピアノを叩いて突然現実に戻る感じにしたり。歌っている女の子がバイト先だと夢の歌手として、次ではレッスンの現実に戻るという。
同じピアノでつながっているのが気持ちいいですね。音もうまくつながっていて。
画面外の音もたくさん使われていますね。

丘山 絵の奥行き感を意識して作っていたので、近くの音、遠くの音のコントラストを意識してつけてくれたらしいです。

高山 実写でもそうなんだけど、映像において、目は視野の範囲のものしかしか見えてないんだけど、音は360度全部入ってしまうという。なので画面にないところの音を使うと、絵もあまり書かなくても良いし(笑)。

丘山 絵がまだ完成していない時点で音をつける必要があって、ミキシングの段階でまだ作画が終わってなくて。なので音は余白のある、余裕のある音作りをしてくださいました。


高山 その辺は、この作品の豊かなところですね。音がとても充実していて。音の豊かさでも引っ張られ、見られてしまう作品だと思いますね。



アニメーションと音楽の理想の関係とは


修了生の羅絲佳(「私はモチーフ」)は作中の4役を全て一人で喋っています。作品のテーマになっている「モチーフ」という題材について、高山先生は自らの解釈を交えて考察しています。

高山 今期の修了生の特徴として、オリジナルの音楽ではなく、既成の音楽を使っている方が多く目につきます。今回は来られてないけど村田さんはバッハの平均律クラヴィーア曲集の第1番を使っていて、羅さんは15番を使っていますね。その選んだト長調のフーガですが、ト長調の特徴は快活で能弁でよく運動するイメージがあるので、この作品にぴったりです。

次に、高山先生は作品に使用した15番のフーガの楽譜を見ながら、フーガが何か・その面白さを解説しました。

高山 「フーガ」は日本語で「遁走曲」と言い、カノンのように複数の声部がお互いに追っかけることがありつつ、その間ほかの声部に調和するように違うメロディーもやって、頭がバラバラになりそうなものですが(笑)。何かを描写している音楽ではなく、「ただの音楽」で、音の仕組みだけがここにあって、でもすごく美しいでしょう?バッハはこれの達人です。このような多声音楽は、声部がそれぞれ違う時間を持っている。
また、「モチーフ」と言う概念は、音楽にもありますね。例えばこのフーガの最初の二小節も一つの「モチーフ」と言う。『私はモチーフ』の前半の対話の部分が、なんか哲学的で、何か本を読んだり感動したの?

 ちょっと記号論と意識の誕生についての本を読んだり、例えばロラン・バルト、そして『ゲーデル、エッシャー、バッハ』とその作者の『わたしは不思議の環』が面白くて少し影響を受けました。

高山 作品を見た私の感想なんだけど。モチーフの最初は音符だけど、それ自体では意味がない。これは”言葉”なのかなって。言葉で「私」っていうんだけど、言葉自体には意味がなくて、英語だったら「I」になったりとか。中国語だったら「我」になる。音自体には意味がないけれど、使った時に意味がある。それは”音符”も一緒ですね。”音符”の丸に意味はない。でも音が鳴った時に何か”もの”を指してるんだなって。指示対象があって意味がある。一番目のモチーフはそれかなと思った。
2番目のモチーフは、”イデア”かな?そのものの本質。例えば「木」と言った時に、具体的に何もささないよね。”概念”でしょう?イチョウの木、ポプラの木、色々あるけど、「木」という概念をみんな持っているよね。本質があって、でも何かをさす時には形が変わったりする。その本質が”イデア”。2番目のモチーフは、そうした”イデア”的なものかなと思って。
3番目は”物自体”。イチョウの木は言わなくても厳然としてそこにありますよね。言葉を使わなくてもそれ自体がある。”それ自体””物自体”じゃないかなと。
そういう考え方も、許してくれる?(笑)

 あまり解釈を限定したくないので、合ってます!

そしてお話は、アニメーションと音楽のテンポの話へ。アニメーションと音楽の理想的な関係とは何なのかが話題となりました。

高山 これは、アニメーションの動きに合わせてデジタルで音楽のテンポを変えていますね。普通の演奏だとありえないくらい速いテンポになったりして。それは羅さんが自らデジタルでテンポを加工しているんですね。既成音楽を使ってはいるけれど、音楽に合わせてアニメーションを作るんじゃなくて、アニメーションに合わせて音楽の操作をかなりやっている。
バッハの曲ってスーッと1音から始まって、ドラマチックな展開があるんだけど何か表しているわけではなくて、音楽としてドラマチックなだけで、最後は音楽が日常的に、平和に終わっていく。これがバッハの好きなところなんだけど。アニメーションにおいてもエンディングがそんな感じになっていたね。EDはいつこんな感じに決まったの?

 作るとともに、波に乗っていく感じになって、自然と終わりが見えた感じですね。


高山 音楽に合わせてアニメーションが動いて、自然と終わりが見えた感じなんですね。音楽を伴った作品をやる上では、それはとても幸せな関係ですね。

実際に見た”夢”を作品に


修了生の劉軼男(「家の前に大きな木がある」)は、本作を作るきっかけとなった題材として”夢”の存在を挙げていました。毎日欠かさず夢を見るらしく、作中の出来事もほとんどが実際に見た夢を題材としていました。

高山 この作品は「”夢”の話」なんですよね?

 そうです。作品を作ったきっかけは”夢”で、作中に出てくる出来事の大半は私が実際に見た夢が元になっています。作品後半のデモでは文化大革命のようなシーンがあって、この夢の影響をとても受けました。その時代のことを体験したみたいな。夢が時代を繋いでくれた、という感じで。
本作では、現実と夢のつながりを考え直したいと思ってこの作品を作りました。作中の音楽も”無意識”の音楽にしたくて。夢で見たものだけではまだ曖昧なので、実際に資料を調べながら制作しています。でも感覚は、夢で見たものと同じです。

高山 夢の中では音は鳴ってるの?

 そうですね。私の場合は夢の中でも五感が全部揃っているので、現実とあまり区別のない夢だと思います。

高山 現実の方が夢かもしれないね(笑)。“胡蝶の夢”という話があるよね。中国の。

 そうです。最後のシーンでも蝶が出てきます。

高山 “夢”っていうのは、大きく言えば夢を元にした美術運動の”シュルレアリズム”があったり。要は「意識上じゃない無意識」を取り出して作品にしようという。意識が無意識を検閲しているのを取り払って、例えば寝てる時は意識が緩んでいるから無意識が出てくる。フロイトはそれを精神医療に利用しようとしたり。そうした無意識を形にしようとしたのが”シュルレアリズム”で、現実にはあり得ない、スーパーリアリズムですね。ただシュルレアリズムといっても無意識を書こうとするときに意識して書いてるはずで、「ここにキリンを書こう」と言った具合に。
だからこの作品も全てが夢で、でも意識上でいろんなことを操作しているよね。

 そうですね。自分の手で作っている限り意識せざるを得ないので、だから音楽はもっと偶然性のあるものがあったら良いなと思っていました。

高山 あー、なるほどね。
でもアンドレ・ブルトン(シュルレアリズムの提唱者)は「音楽にシュルレアリズムはない」とも言ってて(笑)。シュルレアリズムに音楽は入れてもらえなかったという。音楽はもともと抽象なので、具象に入れてもらえなかったという。具体的なものが歪むから”スーパーリアリズム”になるわけで、もともと抽象的なものがどう動こうとシュールにはならないんですよね。 






高山 木が大きくなって入りにくくなるじゃん?あそこから現実感がなくなって、悪夢のような世界になっていく感じがあるんだけど、そこまでが現実でそこからが夢なのかなという風に見ることもできる。一方で一番怖いと思ったのが、食事の場面、外では文化大革命が続いている、家には人がいっぱいいるような感じの中で「エビ食べる?」とかごく普通の会話や生活をしていることが実は一番怖いところだと思いました。


 このシーンは自分でも一番不気味だと思います。このストーリーは文化大革命からの逆順番だと思っているんです。文化大革命があって、反省があって、そして今の人、2020年の人たちがどう思っているのか。最後のシーンは、そうしたことが何も始まっていない状態の怖さが表現されていると思います。家の中でも語れないことがあるという怖さ。


高山 そういう面白さがあるね。



息遣いと字幕にこだわる理由


修了生の川上 喜朗(「螢火の身ごもり」)の作中では、主人公がセリフを発さず、字幕と息遣いのみで物語が展開します。トークでは、なぜ息遣いを選択したのかが話題になりました。

川上 字幕を選択した理由には、字幕を使い、それ以外を息遣いにすることで、鑑賞者である私たちと映像の中の少年に距離感を持たせたかったという意図があります。直接喋ってしまうのではなくて、鑑賞者が少年を観察するような眼差しを含みながらこのお話を見て欲しい。そのために息遣いだけで感情の起伏が流れていくように表現してほしいと考えていました。

高山 字幕だけにしていることで、実際に声を出さないので、キャラクターの像がしっかりとは具体化されないですね。抽象化されていく感じ。声を出すと「この人はこういう人なんだな」というのがわかるけど、本作ではわからないまま鑑賞者に委ねられる。普段の生活も描写されないので、ただここにいるだけの人として、キャラクターとしてただ存在する感じがします。喋らないので心の中で言っているような感じがする。もっと深読みすると、彼は話すことができないのかもしれない。
話すっていうのは「返事を期待する」という意味もあるわけじゃん?ウンウンって頷くから僕も話してられるので。それがうまくいかなくて、彼は話さない、話せない状況下にあるのかなと思ったりしながら見てました。

川上 実際の小中学生も、思ったよりも喋らないと思うんです。アニメーションだったら展開のためにたくさん喋る必要はありますが、実際の子供って、思っているほどおしゃべりはしない子が多いと思うんです。字幕を無意識に選択した理由には、そのこともあると思います。

話が展開する中で、高山先生は今期の修了生達の作品において、音に意味を持たせる演出が多いことを指摘しています。

高山 今期の修了生は、音に重要な意味を持たせる演出の作品が多いですね。「いちご飴」(李 念澤)では赤いビー玉の転がる音、おじいさんの鼻歌が重要な要素になってます。川上君の作品では主題になっているのが水の音。この音は早い段階から頭の中で鳴ってた?

川上 今回は”少年の妊娠”という題材から始めていく中で、最初は”羊水”のイメージがあったんですよね。お腹の中のあったかい水の中で赤ちゃんが育まれていく感覚。それが物語全体の音の最初のイメージでした。

高山 血がぽたっと落ちる場面とか、川辺とか、水のモチーフが印象的でした。それと、冒頭で手を叩いた後に握っているのも印象に残ったんですが、あそこは、すぐ握ってしまってたら「パーン!」じゃなく「キュッ」と握る音に変わってしまうので、ああいう音の芝居ができなくなるところですね。頭の中であの音がなってるからこそ、いい”間”をとって握るという動作になる気がしました。
川上君の作品には、カットのお尻に余韻があるので、前の音が余韻に全部生かしきって次の絵に移っていく。それはきっと頭の中でそう聞こえてるんだろうなって。そこが優れてるところですね。うまくいかないと、絵の都合ですぐに次へ次へと進んでしまうので音の余韻を生かせない。その余裕に強い印象を持ちました。

話において、音環とのコラボレーションによる醍醐味も話題となりました。

高山 後、ベビーベットのカタカタ回る場面は、音ありきの発想だよね。

川上 そうですね。ただ具体的に意図してるというより、ただこういう雰囲気を作りたかったということに尽きるというか。

高山 その中で音の出るものがオブジェクトとしてあると、音がついてシーンがリッチになる。

川上 最初は音がなくても良いと思ったんですが、音響の方がやり取りの中で偶然つけていただいたものですね。

高山 なるほど。そこはアニメーションならではで、音をつけるかどうかは自由ですからね。後からつけることもできるのは、アニメーションの作り方の一つと言えます。
音がなっている箇所以外にも、音の間が良いなと思ったところは、出産場面でディストーションみたいになった後に無音になるところ。あそこの無音は、どのくらいの長さにするかが難しいところだと思うけど、いい”間”になっていますね。それは音楽の担当者と意思疎通がうまく行っていて、テンポの感覚が共有できてると思ったところです。それもコラボの醍醐味だもんね。 



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アニメーションにおいて、音の存在は必要不可欠なものです。
(編集・川上)


藝大アニメーション専攻においては音環の学生とのやりとりを通じ、映像における音楽の可能性とは何なのか、お互いに切磋琢磨してまいりました。
アニメーション、音楽、音響を意識してどのような表現の可能性が生まれるのか。学生達の模索は続きます。